本を読んでも理解できなかった時の悲しさ

私は本を読むのが好きである。昨今、老若男女問わず読書離れが叫ばれているが、私は3~5日あたり1冊を読む。1年で80冊ほど読んでいるので読書家までとはいかないまでも、全く読まないというわけでもない。読書にはまったきっかけは、青春時代特有の悩み(もう何十年も前のことだ)から抜け出したくて、本に記されている多くの養分を滋養として吸収したかったからだ。その頃はロシア文学やドイツ文学、北欧なんかの戯曲も読みあさった。精神の苦悩を緩和するためだった。

文学への嗜好も歳を重ねるごとに変わってきて、ヨーロッパの古典文学から日本の古典文学、日本の現代文学アメリカ文学へと推移してきた。読書をしているときは基本的に楽しいので、教養を身に付けるというよりは娯楽として、自分の精神に良いものとして読書を位置づけている。

ただ、世間で絶賛されている本が私に理解できないと、なんだか悲しい気持ちになる。理解できないというのは、文字通り内容が頭に入ってこないという意味である。私の読解力不足だ。内容はわかるけれど、何がおもしろいのかさっぱりわからない、というのは個人の好みの問題なのでここでは話題に上げないが、内容すらわからない本というのもこの世界にはたくさん存在する。日本語で書かれているにも関わらず。

それが、「文学史に残る名著」なんて評価されているものなら、私は悲しい。なんでこれが私には理解できいのだろう。どんなに精読しても読解困難で途中で放り投げてしまいたくなる。読書は自分のために、自分が楽しいと思えれば万々歳で、どんなに名著を読もうが自身の心が震わなければ意味がない。長い人生を支えてくれるような本に出会うことが何よりも大切だ。

一方で、そういうことは分かっていても、そういう「名著」を理解できる人と、理解できない人との間には、やはり境界線が引かれている気がする。要は、そういう「名著」を読んだことのある人と、読んだことのない人では、その後の人生はメモリ1つ分くらい差が生じてくるのではないか。時代時代を牽引してきた作家や本というのはあるわけで、そういう本を理解できるというのは大切なことのように思える。読書が好きな人ならなおさらだ。

だから私は、今後しばらく精読して内容を捉えていきたいと思う。そうすれば、まだ知らない読書の楽しみを、発見できるかもしれない。

 

連絡のないiPhoneを握り締め

iPhoneは便利なものである。LINEやSNSアプリを使えば、世界中の誰とでもコミュニケーションを取ることができる。それは事実だが、どうせならより親密なコミュニケーションを図りたいものだ。

私のiPhoneには何人かの連絡先が登録されている。しかし、彼らから連絡が来ることはほとんどない。パートナー(異性)がいるので、全く誰とも連絡を取らないと言えば嘘になる。けれど誰からも連絡がないというのは非常に寂しいものだ。

大学時代を思い返してみると、毎日たくさんの人と連絡を取っていた気がする。クラスの人たち、サークルの人たち、ゼミの仲間、教授たち、好きな異性などなど。当時は特に意識していなかったけれど、誰からも連絡のないiPhoneを握り締めていると、いかに自分が恵まれていたか、いかに自分の周りには友人がいたかが思い出される。

それぞれが就職して別々の道に歩みだし、ある人は家庭を持ち、ある人は海外に住んだりすると、なかなか連絡を取り合うことはないのだろう。私は社会人になって、ほとんど友人というものができなかった。私の友人というのは学生までの友人だ。今でも大切な友人だが、彼ら彼女らが今どこにいて何をしているのかわからない。

iPhoneは非常に便利なツールだ。しかしそれがあるからといって、人生が豊かになるとは限らない。私の鳴らないiPhoneを握り締めていると、私ももっと頑張らなくてはと思う。

仕事後に都心に繰り出すことについて

私にとって仕事後遊びに行くのは一苦労だ。職場が割と田舎にあるため、都心に出るには片道40分から1時間はかかってしまう。仕事がはやく終わったとしてもなんだかんだ19:00~19:30に新宿に着く。仕事で疲れているので、都心に着く頃には心身がへばっている。もともと疲れやすい体質なのだ。

しかし、そうやって職場と家の往復の毎日だと、気分はどんどん塞ぎ勝ちになり何の変化もない日々にうんざりしてしてしまう。それに先日会った友人が、趣味や習い事に精を出していて毎日楽しそうだったから、私も多少は遊ぼうと心に決めたのだ。

そんなわけで昨日は仕事後新宿に繰り出した。仕事の調整をして早く上がったけれども、新宿についたのはやはり19:00頃だった。それからパートナー(異性)と待ち合わせて夜ご飯を食べ始めたのは20:00。仕事で疲弊した精神は、パートナーとの会話に上書きされ、だいぶ前の事のように感じる。新宿に遊びに来て良かったと感じる。

けれども頭の中に浮かんでくるのは、帰宅時間だ。私の家は新宿から遠く1時間半はかかってしまう。毎朝5時に起きるため、早く家に帰りたい。そして日付をまたがないうちに寝たい。そうなると21:30頃には新宿を発ちたい。20:00からパートナーと夜ご飯を食べて21:30に帰宅。かなりバタバタだ。

 

そこまでして、仕事後に新宿に来る意味はあるのだろうか。私は十分に意味はあると思う。先程も述べたが、職場と家の通勤路を外れて違う場所に行くということ、それに職場の人以外に会って話をすることはかなり気分転換になる。新宿からの帰り道、わずか数時間前のことなのに仕事の記憶は遥か昔のことのように感じられた。それは良かった。そして今日、寝不足感は大いになるが、なんとか仕事に来れて順調に一日を終えようとしている。

人から見たら、もっと遅く帰宅したっていいじゃないか。そんなことを考えていたらたんにもできないし、そもそも楽しめないんじゃないか。と言うことだろう。しかし私の生活からはこのくらいまでしかできない。もう少し慣れてきたら、夜遅くまで遊んだり次の日の心配をしなくなったりするかもしれない。でも今はこのくらいが限度だ。大事なのは、仕事後遊びに行けたという事実である。

私の友人は週5で飲んだり、バーを開拓して深夜まで居座ったり、習い事を遅くまでやったりしていて本当に尊敬する。もちろん出歩くことがいいわけではないが、その体力と翌日の心配をしない据わった肝に驚嘆する。私も少しずつ行動していこう。

生命を持たぬ花たちへ

先日、友人に連れられて造花の専門店に行った。友人は造花を使って工作をするのが好きで、そのようなお店に精通していた。私は工作が苦手で造花も手に取る機会もなかったので、そのようなお店に足を運んだことがなかった。というより、造花の専門店なるものが存在することすら知らなかった。

造花の専門店に入ると、あまりの華やかさに驚いた。まるで、本物の花屋に踏み込んだようだ。造花といえど、雑貨屋に売っているようなものではなく、1本1本手作りで本物との区別がほとんどできない。もちろん触ればわかるのだが、色や花びらの形やシワも非常にリアルに作られている。いろんな色事に、いろんな種類の花が置かれており、色も1つとして同じものはなくすべて異なっている。

 

生命を持たぬ花たちが、これほど美しいとは思わなかった。

もちろん、生命あるものに勝るものはない。それは理解している。けれどあまりにも巧妙に作られ、紙に生命が吹き込まれたようだった。友人は数多くある造花を隅から隅まで眺め、工作するイメージを思い浮かべながら一本ずつ手に取り吟味していた。そして1時間ほどかけ、工作に使えそうな造花を購入した。

店内には私の友人と同様に、造花を求める人で賑わっていた。女性がほとんどだったが、男性もちらほらと見かけた。普段工作をしない私にとって、そこで造花を買い求める人たちは一体何を目的にやってきたのかと興味深かった。この世の中では、工作をする人がいかに多いことか。

 

その店内に1時間ほどいて、私は1つのある発見をした。それは造花を買い求める人たち全員が、皆幸せそうな顔をしていたことである。創作の喜びからだろうか、1輪ずつ選んでいる姿は、生命あるものを前にした本物の花屋のようだった。

生命を持たぬ花たちへ、確かに君たちは生命を持たないかもしれない。しかし君たちは生命と同じように人の心を暖め、幸せにしている。生命ある花々と変わらずに。

 

ペンケースと革磨き

私の宝物の1つに、ペンケースがある。22歳の誕生日に友人がプレゼントしてくれたものだ。もう何十年も前のことだ。小学校時代からペンケースは半年ごとに買い換えていたけれど、そのペンケースはプレゼントされてからずっと愛用している。

茶色の革のペンケースで、とてもシンプルなものだ。ファスナーが付いていて、今でもなめらかに開閉する。布製のものしか使ったことがなかった私にとって、それをプレゼントされた時は心から嬉しかった。ちょっぴり大人になった気がした。良い道具は使う人の背筋を正す効用がある。

 

それからというもの、私は革製品が好きだ。所有している革製品なんて、片手で数えるほどしかないが、どれもペンケースと同じく長年私の手元にある。革は水に弱いことや油分をしっかり補給しないとヒビが入ることも経験からわかってきた。だから専用のクリームで磨くことを日課としている。革製品を磨く時間は至福だ。革の匂いとピカピカに光る製品をいつまでも感じていたい。革の匂いはどれも似たような匂いだけれど、それぞれはちゃんと異なっている。当たり前のことかもしれないが、日用品で香りを嗅ぎ分けられるというのは、なんだか大事なことのように思う。

友人にプレゼントされたペンケースは今でも毎日持ち歩いている。その中に、父親から何年も前に譲り受けたcrossのタウンゼントが入っている。ペンケースを開き、crossのタウンゼントで筆記するたびに、私は何十年も前の友人の姿と、若かりし頃の自分自身を思い出す。苦い経験やそれでいて爽やかな青春時代がすべて詰まったあの頃を。友人は元気に過ごしているのだろうか。

書き連ねることによる忘却

日記を書き続けて5年半になる。書く媒体はシンプルなノートブックがほとんどだが、どの端末からでも閲覧出来るOnenoteにもたまに書く。ほぼ毎日、その時の気分をつらつらと書いている。

日記を付ける上で、自分の中の決まりごとがある。一番重要なのは、絶対に誰にも見せてはいけないということ。このブログのように不特定多数の人が閲覧できる環境だと、日記を付けるにも他者を意識した内容になってしまう。日記はかならず、自分のためのものとして、素直な感情を書く。落ち込んだり悲しんだり、言葉にならないような感情を味わったら、それをそのまま書く。

もちろん文章なんて支離滅裂でいい。その時頭にある感情や思いを言葉に置き換えていく。感情を言語化するということは、指と指との間から砂がこぼれ落ちていくことに似ている。どんなに適切な言葉を探したって、心を正確に描写することなんてできない。だからこそできるだけ素直であるべきなのだ。

 

日記を習慣にしたことでわかったことなのだが、書くと気分がスッキリする。これは本当だ。疑う人は試してみればいい。忘れないために書くというのももちろんあるが、忘れるために書くことだって、日記の効用にはあるのだ。心の中にあるものを自由に表現することなんて芸術家ならまだしも、普通の人の日常の生活ではあまりできない。しかし日記ではそれができる。それも1番簡単な方法で。

 

それでは、お前は日記によって少しでも成長したのだろうか。人間としての深みは増したのか、と正面から尋ねられたら困ってしまうが、少なくとも日記があったからこそ今の自分がいるのだと思える。今までいろんな苦しい感情や悲しい出来事に直面して、運が悪ければもっとひどい状況に陥っていたかもしれないのだ。日記を書くことによって感情の揺れ幅はある程度コントロール出来ているのだと感じる。

日記を付けたことがない人は、どんなことでも良いから、「誰にも見せない」ことを条件にそっと書き連ねて欲しい。もしかしたら、違った生活が見えるかもしれない。

ハナミズキの思い出と別れ

私がかつて交際していた人(異性)は一青窈の『ハナミズキ』を歌うのがとても上手だった。その人が小さな声で口ずさんでいる『ハナミズキ』を聴くのも、カラオケて歌っているのを聴くのも好きだった。実際私は『ハナミズキ』という歌はあまり好きではないのだが、その人が歌う『ハナミズキ』はどことなく透明感があり、なんとなく悲しげでいつも私の心を打っていた。

 

今から何年も前のちょうどこの時期、私たちはとある地方の大きな公園にサイクリングに出かけた。まだ少し肌寒い。けれど陽光は確実に暖かみを帯びている。顔に吹き抜けるわずかな風は実に気持ちが良い。サイクリングに疲れてベンチに腰を下ろすと、ハナミズキが咲き誇っていた。その隣にはピンク色の木蓮があったのを覚えている。

恋人と早春のベンチに腰を下ろし、花々を眺めるのは実に素晴らしいことだ。これから本格的にやってくる春に心ときめき、会話も弾む。

 

目の前に咲くハナミズキ。私はその人が歌うハナミズキが好きだと言った。しかしその人は、ハナミズキがどんな花なのか知らなった。ハナミズキの歌を上手に歌うのに、ハナミズキの花を知らない、そこがなんとも可笑しく笑いあった。春のうららかな陽気の中で、その滑稽さは今でも私の中で素敵な思い出として残っている。

 

その半年後、私はその人と別れてしまったが、今でもハナミズキの季節になるとその人のことを思い出す。連絡も取りあっておらず、どんな人に囲まれて何をしているのかも知らない。しかしその人は今でもどこかで、一青窈の『ハナミズキ』を歌っていることと思う。ハナミズキが咲いているのを見ても、それがハナミズキだとわからずに。