かつて夢というものが現実だった頃

私が珍しいのだろうか、生きていく中で夢というものをあまり抱いたことがない。年を重ねるにつれその傾向はますます強くなっている。

 

もちろん、こうなったらいいな、とかこうなりたいなという願望は持っている。ただ、夢というものが具体化し、それに向かって努力して達成するという、強固でソリッドな夢はあまりなかった。
個人の行動を突き動かすような夢はなかった。

 

私は、夢を持ってそれを実現しようともがいている人を尊敬する。そして、どうやってらそんな夢を抱くことができるのか、あるいは抱くことが出来たのかを不思議に思う。
できれば、問うてみたい。けれど、納得するような答えが返ってくるとは思えない。なぜなら、その人自身気が付かぬうちに夢を抱いていたのかもしれないし、夢を努力して見つけたということはほとんどなかったと思うからだ。夢を実現するために努力したことはあったとしても、夢を見つける事に努力したことがあったのだろうか。

 

夢がないことは悪いことだとは言わない。そういう生き方もあっていい。むしろそういう人たちのほうが多いだろうと想像する。
しかし、私の人生を振り返った時、こうなりたい!という思いから行動したことがあっただろうか。そうではなく、日々の時間に押し流され、意思とは関係なく今のこの場所にたどり着いたのではなかったか。気がついたらこの場所に立っていたのではなかったか。
自分で選んだ道だと言えるのか。

 

何か小さなことでもいい。
こうなったら良いな、こうありたいな。
ということを1つ掲げ、それに向け何かしらの行動をとる。そうやって少しずつ小さな成功を成し遂げていこう。
もしくは、自分が好きだと思うことやっていて楽しいと思える感性を磨いて、そのアンテナの通りに進んでいこう。

もしかしたら、その先に目標があるのかもしれない。

SNSを止めたことによる時間の発生について

私はfacebookが日本に紹介された当初からfacebookを愛好していた。

ちょうどその頃ヨーロッパに行くことがあり、海外で知り合った人たちとfacebookを交換し、普段なかなか会えない中でもコミュニケーションを図ることができた。

2010年から2013年くらいまでは活用しており、日常で顔を合わせなくても友人の近況を知ることができるのは素晴らしいことだと感じていた。

 

しかしここ最近、facebook上に現れる不快な広告やどこの誰かもわからない人の動画が溢れている。

また意識高い系(というよりSNSでお金を稼ごうとしている人々)や、いかにも出会い目的で使用している人が明らかに増えた気がする。

それに人々の投稿だって、SNSが誕生した当初のように気軽に投稿できるものではなく、少しずつ他人を意識した投稿に変化している。

 

正直、ここまで来ると、facebookを開くメリットはほとんどないように感じた。

けれども、気が付けばアプリを開いてしまっている。

 

fcebookをやめることにより一体どれほどのデメリットがあるのか、いかに情報から取り残されてしまうのかを実感するために、ケータイからアプリを消してみた。アカウントは残っているので、問題はない。

 

削除してから2週間ほどが経つが、デメリットは感じない。不思議なことに、facebookを見たいという気持ちも沸き起こらない。

何気なく覗いてしまうサイトであっても、アプリを消すという手段をとると、見事なまでに開かなくなるのだ。これは正直、大きな驚きだった。

 

隙間時間でついついケータイを開いていた時間が、私に「自由な時間」として与えられたのだ。

この「自由な時間」を有意義に使えるようにしたい。

 

さて、一体何に使おうか。

腕にはいつも自動巻き

止まってしまった時計を見ると、とても悲しい気持ちになる。

いつもは動いて時間を教えてくれる時計、その時計が急に動かなくなると時計が抜け殻のように見える。

だから私は電池式の時計は使わない。自動巻きの時計だ。

 

基本的に毎日時計を付けるので、もう何年も動いている。ちょうど昨年末にオーバーホールをしてもらったばかりなので、あと数年間は心配ないだろう。

 

自動巻きの時計なんて今どきあまりしている人はいないかもしれないが、私自身だって身内の死後形見分けでもらうまでつけたことはなかった。学生の頃からずっとSEIKOの電池式時計だった。

それが自動巻きの時計をもらったことにより(形見分け)、自動巻きの良さを感じるようになった。ほぼ毎日時計をしているとはいえ、休みの日や具合が悪くなって時計を付けない日もあるだろう。そんな時、ネジを巻くのも楽しい。巻かないと1日かそこらで止まってしまうのだ。

 

手がかかるけれども、そうやって手入れをしていくといつの間にか自動巻きの時計に愛着を持つようになる。

これから私があと何年生きるか分からないが、少なくとも死ぬまでこの時計をともに時を刻んでいきたいと思う。

 

腕にはいつも、自動巻き。

晴れて風のない日には本を抱えて

晴れて風のない日には、外に出よう。

公園でも良い。最寄りの駅のカフェでもいい。とても気持ちが良い。

コーヒーと本さえあれば、何時間でも過ごすことができる。

 

私は本が好きだ。海外だとロシア、ドイツ文学あたり、国内だと村上春樹、エッセイなんかだと宮田珠己土屋賢二あたりを好んで読む。

 

私は高校時代まで、ほとんど読書をしたことがなかった。小学校の読書時間は苦痛の時間でしかなく、本を読むふりをするのが限界だった。

みんな何が面白くて本なんて読むのだろう。そういう疑問がつねに私の中にあった。そもそも文章を読む力がほとんどなく、漢字も苦手で国語という科目が大嫌いだった。

 

しかし、大学時代に変化が起きた。青春特有の悩みというべきか、自分とは一体なにものなのだろう。これからどのように生きていけば良いのか。そういうやり場のない悶々とした感情が常にあり、それを解決するために藁にもすがる思いだった。

そこで出会ったのが、ドストエフスキーの『罪と罰』だ。その本の中には、人間が生きていく中で大切なものが全て書かれていた(と当時の自分は思った)。そういった自分が知らない大切なものが本の中にはまだまだあることを知った。

 

それからというもの、ドストエフスキーをはじめ、トルストイやヘッセなどの宗教色の強い本を読みすすめた。もちろん選り好みはせず、ヨーロッパの古典と言われるものを中心に読漁った。意味がわからないものでも、とりあえず読み通した。時間はたくさんあったのだから。

 

それから社会人となりまとまった時間が取ることが難しくなっても、読書という習慣はしっかりと私の中に定着した。この荒んだ心を、村上春樹の本はどれだけ励まし前に進ませてくれたことだろう。

 

本はなんのために読むのか。

もちろん教養が身につくとか読書能力を高めるとかいろいろあると思うけれど、私にとって読書とは心を癒し、一瞬でもよいからこの現実から逃走するために読む。少なくとも読んでいる間は、現実の時間を忘れてしまう。別世界にいるかのようなそんな感じだ。

そして運がよければ、将来時が経っても心が再び荒んだとき、かつて読んだ本に励まされ助けられ、一筋の光を見いだせるかも知れない。

読書とは、そんな力を持っている。

落ち込んだ日にはセットアップを着て

セットアップ。

私はセットアップの洋服が好きだ。普段は着ないけれど、特別な日やおしゃれをしたい日にはセットアップを好んで着る。

 

スーツほどかっちりしていないし、遊び心もありそれでいてフォーマルな雰囲気に決まってくれる。

 

私は落ち込んだ日にもセットアップを着る。

誰に見せるわけでもなく、誰に会うわけでもないのに、なんとなく着るのだ。

着ると洋服から、「おいおい、大丈夫かい?もっと背筋を伸ばさなくちゃ!せっかくのセットアップが台無しだよ!でも無理しちゃいけないぜ。ゆるくいこう」と語りかけてくれるかのようだ。

 

最近パートナーともうまくいっておらず、誰とも連絡を取らない日が続いていた。ケータイを開いたってメールや着信の1つさえない。なんて私は孤独なんだろうと思う。

この1000万人が暮らす大都市の中で、連絡を取り合う人がいないとは。

街ゆく人々は、一体何を考え、誰と話しながら生きているのだろう。私のように孤独の人なんていないように思える。

 

ただ、今日はセットアップを着る。

こんな日だからこそセットアップを。もしかしたら何か良いことが起こるかも知れないから。

3連休の直島旅行計画2

ようやく、公共交通機関の予約が完了した。

日航空代金を振り込み、チケットを発券するためのバーコードが送られてきた。

ゲストハウスにも電話連絡をし、予約が取れていることを確認した。

 

完璧だ。

 

朝、最寄りの駅から羽田空港まで行くリムジンバスの時刻も調べたし、高松空港から高松駅に行くバスの時刻も調べた。

ここまで調べたのは、私にとってはすごいこと。

 

今まで生き当たりばっかりの旅行しかしてこなかったけど、その分反省することも多く、インターネットを活用して調べられるだけのことは調べようと決めたのだ。

飛行機の座席指定なんかも、あらかじめ航空会社のHPから行うことができるなんて初めて知った。インターネットにめっぽう疎い世代ではないはずだが、こんなに便利になっているとは露知らず・・・・。

 

旅行を自分一人で計画することも、いろいろなことを知れて大変勉強になる。公共交通機関を押さえたので、あとは当日何をするか。何を見て、何を食べるか。どんなふうに行動するか。ここを調べていけたらと思う。

 

詳細は随時お伝えしていく。

雨の匂いがもたらす追憶

昨日、雨が降った。

久しぶりの雨だ。

 

雨がアスファルトに落ち、それがもたらす匂い。

雨が、土や森林に落ち、それがもたらす匂い。

 

雨の匂いが好きだ。

雨の匂いは、過去を思い出す遠因になる。

 

たとえば、学生時代、好きだった異性と雨の中ベンチに座り、語り合った時間。

たとえば、雨の中ひとり寂しく、都会の喧騒を歩いた時間。

たとえば、放課後、傘をさしながら友人と笑いあった帰り道。

 

どれもその当時は、雨に濡れて不快な気分だったはずだが、なぜだか思い出されるのは郷愁と哀愁の狭間のような、何とも言えない感覚だ。

 

そんなことを思い出しながら、昨日、雨の中家に帰った。