カラマーゾフの兄弟、読了

久しぶりの更新。最近は専ら自分の好きなように時間を使っている。コーヒを嗜んだり筋トレを始めてみたり。中でもカラマーゾフの兄弟を読み進める時間が好きで、先日ようやく読み終えた。実はカラマーゾフの兄弟は、これまでにも2度読んでいたことがあり、いずれも1300ページあたりで読むのを辞めていた。この小説の核である「大審問官」を超えたあたりだろうか。とっても面白いのだが、こういう小説は細切れに読んで行くものではない。当時の私は仕事の都合で1日30分程度しか時間を割けず、当然のことながら何となく遠ざかって行った。ライフスタイルによって、読むのに相応しい本というのは確かに存在する。残念なことだが。

今回はご承知の通り時間が少しできたので、今まで読もうと思っていた本を一気に読もうと決めていた。1つが前述の「カラマーゾフの兄弟」、あとはトルストイの「アンナ・カレーニナ」、メルヴィルの「白鯨」などだ。

さてカラマーゾフの兄弟は未完の作品と言われいている。冒頭で「この小説は2部に分かれている」と筆者のドストエフスキーが述べており、世に出回っているのは1部のみ。これを書き上げた直後にドストエフスキーは他界してしまったからだ。とはいえ、1部だけでも大作であり、宗教や思想など全てを盛り込んだ大小説はもう出てこないだろう。書き上げる力のある作家がいないからだ。このような小説は、ドストエフスキートルストイで完結してしまったのであり、現代の小説は当時のものと役割は異なっている。

私は、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟にちょっとした思い入れがある。大学を卒業するとき、恩師であった教授に、「君はこれからアリョーシャのように生きていかれるように」と祈りを捧げられ卒業した。アリョーシャは、カラマーゾフの兄弟の主人公で、神の子のような人格である。だから、何となく自分の人生と照らし合わせてこの小説を思っていたし、どういう意図で教授がこのようなことを言ったのか理解しようと努めていた。

読了した今、私はアリョーシャのように生きているだろか、教授の願い通りになっているだろうかと自問するも、否という回答が明らかであって、ちょっと考え込んでしまう。恩師の教授は私が卒業するときに大学を辞めており、もうお会いする機会もない。しかしながらその願いは未だに私の心に刻まれている。今回、アリョーシャの人生と自分のこれまでの生活を比較し、身の引き締まる思いがした。

連日の自然災害やスポーツ界の「噂」に人々が振り回され、さすがに疲弊してきた。人々の心が安らかになるよう、願っている。