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木陰のなかの水たまり

日常のささいなことや、光や影について、ゆるく書いていければなと思います。

晴れて風のない日には本を抱えて

晴れて風のない日には、外に出よう。

公園でも良い。最寄りの駅のカフェでもいい。とても気持ちが良い。

コーヒーと本さえあれば、何時間でも過ごすことができる。

 

私は本が好きだ。海外だとロシア、ドイツ文学あたり、国内だと村上春樹、エッセイなんかだと宮田珠己土屋賢二あたりを好んで読む。

 

私は高校時代まで、ほとんど読書をしたことがなかった。小学校の読書時間は苦痛の時間でしかなく、本を読むふりをするのが限界だった。

みんな何が面白くて本なんて読むのだろう。そういう疑問がつねに私の中にあった。そもそも文章を読む力がほとんどなく、漢字も苦手で国語という科目が大嫌いだった。

 

しかし、大学時代に変化が起きた。青春特有の悩みというべきか、自分とは一体なにものなのだろう。これからどのように生きていけば良いのか。そういうやり場のない悶々とした感情が常にあり、それを解決するために藁にもすがる思いだった。

そこで出会ったのが、ドストエフスキーの『罪と罰』だ。その本の中には、人間が生きていく中で大切なものが全て書かれていた(と当時の自分は思った)。そういった自分が知らない大切なものが本の中にはまだまだあることを知った。

 

それからというもの、ドストエフスキーをはじめ、トルストイやヘッセなどの宗教色の強い本を読みすすめた。もちろん選り好みはせず、ヨーロッパの古典と言われるものを中心に読漁った。意味がわからないものでも、とりあえず読み通した。時間はたくさんあったのだから。

 

それから社会人となりまとまった時間が取ることが難しくなっても、読書という習慣はしっかりと私の中に定着した。この荒んだ心を、村上春樹の本はどれだけ励まし前に進ませてくれたことだろう。

 

本はなんのために読むのか。

もちろん教養が身につくとか読書能力を高めるとかいろいろあると思うけれど、私にとって読書とは心を癒し、一瞬でもよいからこの現実から逃走するために読む。少なくとも読んでいる間は、現実の時間を忘れてしまう。別世界にいるかのようなそんな感じだ。

そして運がよければ、将来時が経っても心が再び荒んだとき、かつて読んだ本に励まされ助けられ、一筋の光を見いだせるかも知れない。

読書とは、そんな力を持っている。