消えゆく朝の気持ち

朝抱く気持ちと夜抱く気持ちは驚く程ちがう。まるで別人みたいだ。たとえば、朝会社に行く時、こんな仕事とっとと辞めてやると思いたち、いろいろ調べてみる。そして自分には無限の可能性があるように感じられる。絶対違う道に行こうと心に誓う。しかし、会社に行き仕事を終える頃になると、挑戦という野心は消え失せ、早く帰ってゆっくりしたいという思いの方が強くなっている。

これはなんなのだろう。あの朝の野心はどこに行ったのだろう。あの希望に燃えた、現在からの脱却を叫ぶような響きはなぜ消えてなくなってしまったのだろう。あれさえ続いていれば、全く別の道を歩むこともできるのに。

思うに、朝の気持ちは何もにも汚されていないピュアなものだ。自分の心を純粋に反映している。朝の気持ちをよく観察したほうがいい。その奥底に、私たちの本心が隠れている。憂鬱な気持ちが何日も続けば、違う行動をとったほうが良い。スティーブ・ジョブスも言っている(確かそうだった)。

反対に、夜の気持ちは、日中の疲れから心を純粋に映しだしていない。それは歪曲した鏡に映る自身のようだ。本来の姿からすっかり変わっている。だから、夜の気持ちはあまり信じないほうがいい。たとえそれが、どんなに快楽的な気持ちでも。きっとそれは私たち自身ではない。

夜中に目が覚めて眠れなかった

毎朝5時に起床するため、あまり夜中に起きることはないのだが、昨晩は2時くらいに目が覚めてしまった。再び眠ろうと思っても、なかなか寝付けず大変だった。私は睡眠時間はできるだけ確保したいため、毎日日付を跨がないよう気をつけている。すぐに入眠することができ、気がついたら5時だったというのが毎度のパターンだ。だから昨晩の2時起きは珍しい。

2時に起きて眠れない場合、どうしたらよいのだろう。次の日の心配をすると余計眠れなくなるのが関の山で、さっさと吹っ切れて気分転換をしたほうが良い。心配するだけ損だ。だから私は、ホットミルクを飲み、眠くなるまで本を読んだ。選んだのはヘルマン・ヘッセ。ヘッセはなんというか、郷愁って感じがして寝る前に読む本としてはなかなか打って付けだと思う。興奮するわけでもなく、次の展開が待ち遠しい!ってわけでもないので、ゆったりと気分を落ち着かせるのにちょうど良い。訳が素晴らしいため、ドイツの田舎の自然描写なんかがあると、それだけで心安らぐ。気分はいつの間にかドイツの湖畔あたりを漂っている。

昨晩は、そのようにしてウトウトと読書をしていた。幸い、1時間半くらいしたら眠くなってきたので3時半にまた眠った。5時まで1時間半の睡眠だ。本を読んでリラックスしたのは良いが、やはり途中で目が覚めるのはいささか焦る。今日も朝起きたときは頭がぼーっとしたし、もっと寝ていたいなと強く思ったものだ。できるだけ熟睡したいそう思った。

『夜間飛行』『人間の土地』を再読して

最近、前々から読みたいと思っていたサンテグジュペリの『夜間飛行』と『人間の土地』を読了した。どちらも学生の頃に読んで、なんだか抽象的な内容に眠くなってしまったのを覚えている。ただ、自分の書棚を見るたびに、「もっと私のことをちゃんと読んでよ」と訴えられているようで、この年までずっと気にかかっていた。もちろん、これらの2作が大変評判がよく、私もしっかり味わいたいと思ったのも再読した理由なのだが。

さて、読了してみての感想は、描写が美しくて大変面白かった。文章の読みにくさは相変わらずあったが、あれは抽象的というよりも独特のリズムのせいだろう。もちろん、そのリズムが作品を一層深いものにしているのは確かで、ただそれに身体を馴染ませるのに時間がかかる。『夜間飛行』『人間の土地』を一気に読んだからこそ、なんとかそのリズムを捉えることが出来た。

私は感想をうまく表現することが苦手なので、レビューのようなことはできない。しかし、2作を読んで「公益は多くの犠牲から成り立っている」ことを思い知らされた。とくに、今日当たり前になっている夜間の空輸には、20世紀初頭にはあまりにも危険がつきまとっていた。それをある種の誇りを抱きながら、死を覚悟して空を開拓していった飛行機乗りには魅せられたし、飛行機乗りだからこそ感じた自然の驚異がありありと描かれていた。

最初に読んだ時から何十年も経ってしまったが、今この年になってサンテグジュペリの作品を味わうことができたのは、非常に幸運だと感じる。人間歳を重ねるにつれ、心揺さぶられる経験というのは少なくなっていくからだ。本でも絵画でも映画でも、鑑賞後の何とも言えない清々しさをできるだけ多く求めたい。まだまだ世界には、私たちが知らない世界がたくさんあるはずだ。

ささやかなところから生じるストレス

私たちは、本当にささやかなことからストレスを受けている。日頃、これがこうなっていたらいいな、ああなっていたらいいなと思うことがある。でも、それを改善するほどではない、だからこのままでいいや。と放置していることはたくさんあるはずだ。たとえば私の例だと、使用しているスマートフォンのケースが汚れてきており、最近はベタベタするようになってしまった。でも新しく買い換えるほど汚れてはいないため、そのまま使用していた。これを買い換えたら、ものの見事に気分がすっきりしたのである。

ストレスとは、本当に些細なことから生じる。面倒くさいからいいやと放置してる物事から、ストレスは常に発せられている。蓄積してくれば、積乱雲がモクモクとしてくるように、ストレスもモクモクと積もっていく。だから面倒くさいとは思わずに、1つ1つ個別に対処していくことが求められる。

なんだか説教くさいことを書いてしまったが、全部自分への戒めである。ストレスフリーを勝ち取るために、何が何でも行動していく。頑張る。

星降る夜の真実

先日、池袋にあるプラネリウムを鑑賞しにいった。コニカミノルタの技術を堪能し、プラネタリウムがここまで発展したかと思い知らされた。一昔前のプラネタリウムはドームに星空を映し出し、星座を解説してもらうという勉強要素が強かったように思うが、今回のプラネタリウムはエンターテイメント要素が強かった。香りのする空気が流れてきたり、音楽で観客を魅了したりとドームが1つのアトラクションのように感じられた。また、星空も実にリアルで、チカチカと瞬くような光り方は、なかなかマネできない技術だと思う。

満天の星空を滅多に見ることができない今日、プラネタリウムは貴重だ。地球からはこんなに星が見えるのかと驚き、多くの星を線でつなぎ合わせて神や動物を見出した昔の人に思いを馳せる。実際に自分もこんな夜空を見たいものだと願う。

私は過去に何度か満天の星空を見たことがある。様々な偶然が重なり、非常に幸運だった。1度は高校生ころ、冬の長野に行ったとき、同じ部屋のメンバーたちと先生の監視をくぐり抜けて外に出た。白樺の木々からのぞく夜空は、星がまたたき、何とも言えない神秘な気持ちになった。もちろんその後先生に見つかりこっぴどく怒られたのだが、そんなものより価値のあるものを私たちは胸にしまった。みんなでコソコソと抜け出し、寒空の中夜空に見入った風景は、まだ私の中に息づいている。あたりは真っ暗闇なのだが、星に見守られて心強かったのは未だに覚えている。

満天の星空というものを実際に自分の目で見たことがある人は、少ないのではないだろうか。プラネタリウムは確かにきれいだが、本物の星空はそれを越える美しさがある。美しさというより、神秘性を備えている。星降る夜の真実、現代の人々が忘れてしまった風景を探しに行こう。

聞き役に回ることが多い人は

誰かと二人で話していると、私は基本的に聞き役に回ることが多い。物事をわかりやすく説明する力がない上に、気の利くジョーク1つも言えない。だから話をして相手に退屈な思いをさせるくらいなら、黙っていたほうがいいと思うのだ。また、自分が話すと緊張してしまう。話題を選ぶのはさして大変ではないが、選んだ話題をどのように話すのか、最終的な着地点はどこになるのかなどと余計なことを考えてしまう
本来コミュニケーションとはそういう一方的なものではなく、相互に育むものなので、そんな一人で緊張するのはいかがなものかと思う。けれど、世の中には1人でベラベラと話し続ける人もいるのだ。そういう人を、皮肉なしにすごいなと思う。私には全く持ち合わせていない能力なので。
その話が愉快で聴く人を魅了する場合もあれば、全くの退屈話でうんざりすることもある。ただ、その人が話をするのが好きであるということは変わらない。ただ1人で話し続ける人は、そんなに話すことがあるのか。生まれつき備わっている能力なのか、あるいは努力で磨かれたのかはわからないが、その能力を羨ましく思う。
私も話し方の勉強をしたい。まずは彼ら彼女らの話し方に耳を傾け、どのような順序で話すのか、どのような言い回しがおもしろいのか、声の強弱やトーンの調子なんかにも耳を澄ませてみたい。そんなことに意識を集中してたら、内容は頭に入ってこないのかな。話を聴くのも大変だ。

本を読んでも理解できなかった時の悲しさ

私は本を読むのが好きである。昨今、老若男女問わず読書離れが叫ばれているが、私は3~5日あたり1冊を読む。1年で80冊ほど読んでいるので読書家までとはいかないまでも、全く読まないというわけでもない。読書にはまったきっかけは、青春時代特有の悩み(もう何十年も前のことだ)から抜け出したくて、本に記されている多くの養分を滋養として吸収したかったからだ。その頃はロシア文学やドイツ文学、北欧なんかの戯曲も読みあさった。精神の苦悩を緩和するためだった。

文学への嗜好も歳を重ねるごとに変わってきて、ヨーロッパの古典文学から日本の古典文学、日本の現代文学アメリカ文学へと推移してきた。読書をしているときは基本的に楽しいので、教養を身に付けるというよりは娯楽として、自分の精神に良いものとして読書を位置づけている。

ただ、世間で絶賛されている本が私に理解できないと、なんだか悲しい気持ちになる。理解できないというのは、文字通り内容が頭に入ってこないという意味である。私の読解力不足だ。内容はわかるけれど、何がおもしろいのかさっぱりわからない、というのは個人の好みの問題なのでここでは話題に上げないが、内容すらわからない本というのもこの世界にはたくさん存在する。日本語で書かれているにも関わらず。

それが、「文学史に残る名著」なんて評価されているものなら、私は悲しい。なんでこれが私には理解できいのだろう。どんなに精読しても読解困難で途中で放り投げてしまいたくなる。読書は自分のために、自分が楽しいと思えれば万々歳で、どんなに名著を読もうが自身の心が震わなければ意味がない。長い人生を支えてくれるような本に出会うことが何よりも大切だ。

一方で、そういうことは分かっていても、そういう「名著」を理解できる人と、理解できない人との間には、やはり境界線が引かれている気がする。要は、そういう「名著」を読んだことのある人と、読んだことのない人では、その後の人生はメモリ1つ分くらい差が生じてくるのではないか。時代時代を牽引してきた作家や本というのはあるわけで、そういう本を理解できるというのは大切なことのように思える。読書が好きな人ならなおさらだ。

だから私は、今後しばらく精読して内容を捉えていきたいと思う。そうすれば、まだ知らない読書の楽しみを、発見できるかもしれない。